『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』幡野広志

想像していた倍の倍よかった。

 

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『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』幡野広志

自分の人生を生きろ。写真家で猟師のぼくは、34歳の時に治らないがんの告知を受けた。後悔はない。それは、すべてを自分で選んできたからだ。家族、仕事、お金、そして生と死。選ぶことから人生は始まる。

 

読む前に想像していた、「最期を迎える前に後悔のない選択をもう一度!」みたいなものとは違って、もっとドライに生々しく筆者自身が本当に大切なもののために切り捨てて選び直すって感じだった。

 

「がん」とは心を蝕んでいく病であって、本人だけではなく家族にも繋がるもの。

余命宣告を受け公表した後、反応があった中から作者は三人の印象的な取材を行い、命や病についてたくさんのことを理解した。

身内の病を自分の不幸にしてはいけない

患者にとっていちばんの苦しみは自分が家族の重荷になっていること。がん患者の中には、その親という「重し」がなくなった佐木の自由を求めている人もいる。

がんの恐ろしさとは、取り繕ってきた人間関係の「たが」が一気に外れてしまうこと

とりわけ家族内で、「ほんとうはどういう人間だったのか」が極端なかたちで噴き出してしまう。

 

そして作者はひとつの考えに至る。

家族とは、「与えられるもの」ではなく「選ぶもの」

もしそれが改善の余地がない関係であるならば、断ち切ってしまって構わない。多くの子どもは親を甘やかしすぎている。親不孝しないために自分が不幸になっているようでは、誰のために誰の人生を生きているのかまったくわからない。

 

NASA『直系家族』という考え方が鮮烈だった。

それは①配偶者②子ども③子どもの配偶者のみで構成される。

「家族」とは「親子」の単位ではじまるものではなく、「夫婦」の単位からはじまる。自分で選んだパートナーこそがファミリーの最小単位なのである。親を選んで生まれることは誰にもできないが、パートナーを選ぶことだったら誰にもできる。

「親と自分」という縦の関係から「パートナーと自分」という横の関係を大切にする。「血のつながりよりも大事なものがある」と考えないと親や子どもは自立の機会を奪われたままになってしまう。親だってひとりの未熟な人間でしかなく、聞き分けのいい子どもとして生きることは、親に人生を丸投げしているようなもの。

 

作者は自身が死ぬことついては覚悟を決め恐怖を乗り越えていたが、残したくないものが2つあった。

ひとつは余計な人間関係である。家族のかたちが崩れていくことがいちばんの気がかりであった。それは妻と息子が実家の親や親類たちに取り込まれ、振り回され、自分たちの人生を歩めなくなってしまうこと。

もうひとつは妻と息子につらい記憶を残すこと。自身が苦しんで死に至る姿を見せたくなく、安楽死を考え始める。

スイスなどでは安楽死は「死に方選ぶこと」ではなく、「生き方を選ぶこと」であり、

「この状態のまま、今のわたしのまま最期を迎えたい」という前向きな意思。

この選択についてはもちろん日本ではあまり馴染みがなく、親や親類などの「傍系家族」が反対してくる。

しかし人間の命は株式のようなものであり、何人もの人間が過去から現在まで投資してくれてきたが、あくまで51%以上の過半数の株式をもつのは自分自身。自立とは「自分の筆頭株主になること」

 

生きるとは「ありたい自分を選ぶこと」

子は親を選ぶことはできない。でも選べなかった親を選び続ける必要はない

 

 

家族の在り方を世間体などの矮小な枠組みに囚われず、自分と直系家族をしっかり中心に置いて、生と死を間近に感じるからこそ、ドライで血と意思が通った生々しい選び方をしている。

血や世代を跨いだ家族に縛られがちな私たち日本人には、意識の転換になる一冊。

 

 

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。