『南方熊楠』唐澤太輔

この知らないことを学んでいく感覚、久しぶりだった。

 

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南方熊楠 -日本人の可能性の極限- 』唐澤太輔

百科事典を丸ごと暗記、二十以上の言語を解した、キューバ独立戦争参戦といった虚実さまざまな伝説に彩られ、民俗学、生物学などに幅広く業績を残した南方熊楠。「てんぎゃん(天狗さん)」とあだ名された少年時代、大英博物館に通いつめた海外放浪期。神社合祀反対運動にかかわり、在野の粘菌研究者として昭和天皇に進講した晩年まで。「日本人の可能性の極限」を歩んだ生涯をたどり、その思想を解き明かす。(Amazonより)

 

以前読んだ、『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365』で初めて存在を知り、「日本人の可能性の極限」という中学二年生いまだ引きずってるやつは惹かれることこのうえない異名に興味を持ち。あと単純に名前かっこいい。

 

南方熊楠に関する本はいろいろ出ているっぽいんだけど、この作品で何度も繰り返し訴えかけているのは、対象に対する「極端さ」と「距離感」。

百科事典を丸暗記し、大英博物館で暴力事件を起こし、20以上の外国語を理解し、在野の研究者でありながら天皇にご進講し、キューバ独立戦争に参戦…逸話の字面だけで思い浮かべたらどんな奇天烈なぶっ飛んだ人なのかなって思ってしまう(実際強烈だったんだろうけど)。

 

そこには対象である粘菌へのほとばしる詩的な情熱と、極端な距離感があった。

熊楠は対象をあるがままに包括的に捉えようと、もしくは生命体と一体となろうとするほど没入し、対象そのものの内部から直接観ていた。

しかし周りが見えなくなるほど内在化する一方、普通では考えられないほど対象から逸脱する行為もしてしまう。そして、この逸脱こそ世間や周囲に馴染めず、他者に「寄る辺がない」と思われてしまう要因であった。

彼と対象との距離は自己と他者が全く分離するほど離れているか、ピッタリと合わさってしまうほど接近しているかのいずれかという極端さであった。

そしてこの「極端さ」は「事の学」や「南方曼荼羅」へと発展していく。

自己(心)と他者(物)が共存し交わる「事」の領域についてこそ、始めに知らなければならないと考えた。

客観的には外側からだけでは判断できない生命体を主観的に内側から見ようとし、彼にとって顕微鏡で粘菌を観察するということは、微細な世界に広がる無尽蔵の多様さを持つ「曼荼羅」を自分の目で確かめていくことであった。

繰り返しになるが、彼は他者と近すぎず遠すぎない「適当な距離」にとどまることができなかった。しかし、そう在ったから、他者との距離が極端に遠くなるからこそ、逸脱した思考、「エコロジー」のような他者に囚われない新しい考えを生み出すことができた。反対に他者との距離が極端に近くなり、内部から直観することができるからこそ、粘菌の生態より、「生と死の世界を簡単に分断することなどできない」、「生命現象を観察する者の立場は絶対的なものではない」という考えを見いだせた。

 

うまくまとまらないし、ちゃんと理解できていないこともたくさんある。

それでも、世間には馴染まなかったかもしれないが、愛し愛される存在がいて、認めてくれる人もいて、狂ったほどに没頭し、時には酔っ払って失態を犯し、っていう天才や異常者ではなく、めちゃくちゃ人間くさい人だということが伝わってきた。

これからもいろいろ読んで知っていきたい。

 

 

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)