『暇と退屈の倫理学』國分功一郎
思ってたよりずっと面白かった。
『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』國分功一郎
旧版『暇と退屈の倫理学』は、その主題に関わる基本的な問いを手つかずのままに残している。なぜ人は退屈するのか?―これがその問いに他ならない。増補新版では、人が退屈する事実とその現象を考究した旧稿から一歩進め、退屈そのものの発生根拠や存在理由を追究する。新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。(Amazonより)
オードリー若林が対談していて気になって。入門編みたいな感じだから思いの外すっと入ってきて予想以上に面白かった。
以下はただの個人的備忘録。
「暇の中で生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」
「革命が到来すれば私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。」
→人はパンがなければ生きていけない。しかしパンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけではなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾らねばならない。
1.原理論
人間は「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違える。
パスカル:みじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間。
ラッセル:退屈とは事件が起こることを望む気持ちが「くじかれた」もの。退屈の反対は「快楽」ではなく「興奮」。
・不幸に憧れてはならない
2.系譜学
・人類は定住生活を望んでいたが、経済的事情のために、それが叶わなかったのではない。遊動生活を維持することが困難になった(貯蔵の必要に迫られた)ために、「やむを得ず定住化したのだ」
→食料生産は定住生活の結果で原因ではない。
・定住革命的な人類史観:遊動生活→定住生活の開始→食料生産の開始
・退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた⇨「文明」の発生
3.経済史
「暇」:何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。⇨「客観的な条件」に関わっている。
「退屈」:何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。⇨「主観的な状態」
・レジャー産業:何をしたらよいか分からない人たちに、「したいこと」を与える。人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。
ガルブレイス:現代社会の生産過程は生産によって充足されるべき欲望をつくり出す。
・モデルチェンジ:なぜ買うのか?「モデル」そのものを見ていないから。モデルチェンジによって退屈しのぎ・気晴らしを与えられることに慣れきっている。
4.疎外論
浪費:必要を超えて物を受け入れること、吸収すること。必要のないもの、使い切れないもの浪費の前提。どこかで限界に達する。⇨贅沢の条件
消費:人は消費するとき、物を受け取ったり、吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。限界がなく決して満足をしない。⇨ボードリヤール:消費とは「観念的な行為」
・浪費できる社会こそが「豊かな社会」
・消費社会では物がありすぎるのではなく、物がなさすぎる。なぜなら商品が生産者の都合で供給されるから。
⇨満足をもたらす消費をされては困る、人々が浪費するのを妨げる社会。
余暇:非生産的活動を消費する時間。「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない。
ルソーの自然状態論:「本来性なき疎外」
マルクス:「自由の王国」は労働日の短縮によってもたらされる暇において考えられる。
ボードリヤールが考える疎外:暇なき退屈をもたらしてくる。←消費と退屈との悪循環のなかにある(消費は退屈を紛らわすために行われるが、同時に退屈を作り出してしまう)。
5.哲学
①退屈の第一形式:何かによって退屈させられること
②退屈の第二形式:何かに際して退屈すること
①:「引きとめ」(退屈しながらぐずつく時間によって引きとめられている)と「空虚放置」(虚しい状態に放って置かれる)
⇨空虚放置され、そこにぐずつく時間による引きとめが発生する
②:「何がその人を退屈させているのかが明確ではない」
退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っている⇨主体の際している状況そのものが暇つぶし(気晴らし)
空虚放置:外界が空虚であるのではなく、自分が空虚になる
引きとめ:放任しているが放免していない
⇨生きることはほとんど、②に際すること、それに臨み続けることではないだろうか?
③退屈の第三形式:なんとなく退屈だ
→退屈に耳を傾けることを強制されている
空虚放置:周囲の状況も自分自身も、すべてが一律同然にどうでも良くなっている
引きとめ:可能性の先端部にくくりつけられ、引きとめられ、そこに目を向けることを余儀なくされること
↓
あらゆる可能性が拒絶され、すべてがどうでもよくなっている。だが、むしろあらゆる可能性を拒絶されているが故に自らが有する可能性に目を向けるように仕向けられている。
6.人間学
ユクスキュル:「環世界」すべての生物は別々の時間と空間を生きている
→人間と動物の差異:人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力をもっている。人間は動物に比べて「比較的」容易に世界を移動する(動物もできるはできる)。
↓
環世界を容易に移動できることは、人間的「自由」の本質かもしれないが、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体。何か特定の対象に〈とりさらわれ〉続けることができるなら、人間は退屈しない。
しかし人間は容易に他の対象に〈とりさらわれ〉てしまう。
↓
人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。
人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。
7.倫理学
「決断の瞬間とはひとつの狂気」
ギリギリに追い詰められた人間が、仕方なく周囲の状況に対して盲目になりながら、決断という狂気へと身を投じるのではなく、決断という狂気をもとめて周囲の状況から自分を故意に隔絶する。
=「狂気の奴隷」故意にもとめられこんなに楽なことはない。
・人間にとって生き延び成長していくこと:安定した環世界を獲得する過程。自分なりの環世界を途方もない努力によって創造していく過程。
・人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが習慣を作り出すなかで退屈してしまう←人間は気晴らしと退屈が入り交じった退屈の第二形式を概ね生きている。
・人間が環境をシグナルの体系へと変換して環世界を形成すること、つまり様々なものを見たり聞いたりせずに生きるようになることは当然。大切なのは退屈の第三形式=第一形式の構造に陥らぬようにすること、つまり奴隷にならないこと。
↓
「人間的な生」概ね第二形式を生きること。そして時たま第三=第一形式に逃げてまた戻ってくること。
⇨もうひとつの可能性:つらい人間的生からはずれてしまう可能性⇨何かによってとりさらわれ、一つの環世界にひたる〈動物になること〉。(人間的自由の本質)
結論
①本書を読むこと自体が〈暇と退屈の倫理学〉の実践のただなかにいる
⇨自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては何かが変わる。
スピノザ:大切なのは「理解する過程」(反省的認識)
②贅沢(浪費)を取り戻す
⇨退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受すること、つまり人間であることを楽しむこと。
③楽しむことは思考することにつながる(どちらも受け取ること)
〈人間であること〉を楽しむことで〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる
自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには分からない。そして思考したくないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。
しかし、世界には思考を強いる物や出来事が溢れている。楽しむことを学び、思考を強制することで人はそれを受け取ることができるようになる。
傷と運命
「サリエンシー」:精神生活にとっての新しく強い刺激。興奮状態をもたらす未だ慣れていない刺激。
・サリエンシーに慣れる=「予測モデル」を形成する
⇨最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、自己の身体として立ち現れる。
サリエンシーという〈他〉への慣れが行われる過程において〈自〉が生み出される。
・人はサリエンシーを避けて生きる⇨安定した何も起こらない状態が訪れる⇨周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめる=退屈の正体
・退屈とは「悲しい」とか「嬉しい」などと同様の一定の感情ではなくて、何らかの不快から逃げたいのに逃げられない心的状況
ちゃんと読み返したいし、他の著書も読んでみたい。