新聞と紙と電子と

最近担当業務が変更になったこともあり、まともに新聞に目を通す生活を32歳目前になって、ようやく始めた。

 

大学時代に意識高い系を眩しく感じていたときや、アパレル関係で就活していたときには、業界紙繊研新聞を含め購読していたこともあるけど、結局長続きしなかった。

 

今は担当業務のニュースを探して職場の新聞を読んでいる。自分のものじゃなく、隈なく読まなきゃっていう感じじゃなくて、自分に必要な記事だけ追っているから続けられている。大げさだけど何をやるにしても目的がはっきりしていると行動への意識も変わってくるなと実感。

 

「それだけだったらネットニュースで良くないか?」っていう気持ちもあったけど、スワイプやクリックしなくても、紙面を広げて入ってくる情報のほうが頭に入りやすいことに気がついた。

 

これは書籍でもそうなんだけど、タブレットで読む電子書籍よりも実際にめくって読む紙媒体のほうが読みやすい。

 

タブレットはもちろん便利だし、慣れれば楽なんだろうけど、個人的には一定量の重さを両手に感じて、黄色がかった紙を見つめて、ワクワクしながらページをめくることそのものが読書という一種の体験・経験になっている。そこには便利さとか効率さとは別次元の価値観があると思っている。

 

休みの日に意気込んで図書館と喫茶店をはしごするために単行本でリュックをパンパンにしたり、飲み会会場近くに1時間前に着いて読書するためにサコッシュに文庫本を入れたり、遠出の高速バスに一冊の文庫本を持って行き、行き先の本屋で帰りのための文庫本をジャケ買いしてみたり、「本」という物質含め読書するという行動が生活に根付いている。

 

ひとりひとりにおいて非物質化が進むかどうかは、いかに自身の行動形態に関わっているかによるのかなって思う。

時代遅れだろうとミニマムじゃなかろうと、本の分だけ他人より荷物が多くて、本屋で迷っているうちに青木まりこ現象が起きてトイレに行きたくなり、誰に見せるわけじゃないけど『トリコ』の「人生のフルコース」のように自分だけのラインナップの本棚づくりを一生していくんだと思う。