『相談の森』燃え殻
ちょっと読み始めたら手が止まらず一気読み。
『相談の森』燃え殻
人生相談の人気連載「燃え殻さんに聞いてみた。」待望の書籍化!悩みの一つ一つに、自身も迷いながら答えた「人生をなんとか乗りこなす方法」61篇。(Amazonより)
様々な悩みや相談に答えているけど、その答えは、世間一般的に広く受け入れられるような正解ではなく、作者自身の考え方に根付いた、かつその悩みについて真摯に考えた結果の答えだった。
冒頭にも書いてあるけど、本当に一緒に朝まで話を聞いてあげたような、ともに悩み抜いたような感じを受ける。
個人的にぐっと来たところは、
大切なことを決める時は”世間”という言葉、”一般的”という言葉、”普通”という言葉を使わずに説明できないと僕はダメだと思っています。
人がすぐに言いがちな、「人生は何度でもやり直せる」は嘘だと思っています。でも「人生は何度かやり直せる」は心から信じています。
ってところかな。あとQ58全体。
マジョリティには響かないかも知れないけど、作者の文章に多少なりとも影響されたような人たちには、正解以上に響くところがかならず見つかる。
作者自身に対する信頼が高まった一冊となった。
『熱源』川越宗一
読み応え満パン。
『熱源』川越宗一
『魯肉飯のさえずり』
読んでる最中も読み終わった後も魯肉飯食べたくなる。
『魯肉飯のさえずり』温又柔
ママがずっとわたしの恥部だった―「もしも、あたしが日本人ならと思う」就活に失敗し、逃げるように結婚を選んだ桃嘉。優しい台湾人の母に祝福されるも、理想だった夫に一つ一つ“大切なもの”をふみにじられていく―ことばを超えて届くのは、愛しいさえずり。台湾と日本のはざまで母娘の痛みがこだまする。心の声をとり戻す長篇小説。(Amazonより)
『流』、『路』に続く台湾を舞台にした作品三冊目。読むたびにどんどん魅力が増して惹かれていく。海外旅行したことないけど一番興味あるし行ってみたい。
日本人・台湾人・中国人、統治する国が変われば呼び方も変わっていく移ろいやすさと、それでも自身のルーツや生きてきた道程に誇りを持って掲げる主張。このコントラストは台湾という近代では特殊な変遷を辿った国だからこそ色濃く表されるんだと思う。
外国人であったことや、外国人であった家族を持つことでの、他者との根本的でのわかりあえなさや、会話の端々から感じる決して交わることができない人間もいるんだという小さな哀しみと諦めが印象的だった。
だけれど、そんな人ばかりでなく、自身をそのまま受け入れてくれる人との出会いがいかに幸せなことか、そして協調や疎通の仕方が拙くてもしっかり伝えることがどれほど大切なことか、丁寧な文章からじんわり伝わってきた。
そしてそれらの行き違いや意思を疎通の難しさは、決して国籍や人種が同一でないから起こるものではなく、だれとでも起き得る普遍的なものであるってところ大切だし、言語が同じでもわかりあえていないっていう皮肉さも効いていた。
表紙も綺麗で惹かれるし、見かけ以上に読みやすい文章だし、知らなかった歴史や感情も知れて面白かった。
年末から海外を舞台にした作品をちょいちょい読んでいて、自分の読書経験の範囲が広がっている気がして楽しい。
『本屋さんのダイアナ』柚木麻子
子供も大人にも深く残る素晴らしい作品。
『本屋さんのダイアナ』柚木麻子
私の呪いを解けるのは、私だけ。「大穴」という名前、金色に染められたパサパサの髪、行方知れずの父親。自分の全てを否定していた孤独なダイアナに、本の世界と同級生の彩子だけが光を与えてくれた。正反対の二人は、一瞬で親友になった。そう、“腹心の友”に―。少女から大人への輝ける瞬間。強さと切なさを紡ぐ長編小説。(Amazonより)
正反対に見られるし見ている鏡のような二人が、近づき離れてまた繋がるまでの物語。
出会いの頃も、距離が遠くなったときも、二人は常に惹かれ合っていて、それは光であるとともに時には影となって自身を覆ってくる。自分には持ち合わせていないものを羨む劣等感や僻み、そういう清濁併せた感情を持ち続けて十年間疎遠でもお互いが心から居なくなることはなかった。
互いの語りが交互にあり、対照的な話のトーンが、その時のそれぞれの足りていないものを表し補完しあっているようにも感じられ、早く二人の再会が読みたくなり、もどかしい気持ちになる。
また、明るくないけど様々な児童文学・少女文学や作家名が出てきて、ストーリーにもリンクしてくるので、読書をする上での教養の素地みたいなものの大切さも実感する。こういうのがわかったほうが更に面白さ増すんだろうな。
十年間ぶりの再会という劇的さはあるものの、それまでの二人が経験する中高大学時代の経験は、良くも悪くも思春期ならではの純粋さや刹那さや幼稚さ、その当時でしかわからない感情の揺れ動き方や他人からの影響のされ方が表現されていて、読み手の現実ともしっかり繋がってくる。
友情の尊さも、自立の本質も、本の素晴らしさも、この本を読むだけでたくさんのことを気づき感じられる。
一生本棚に置いておこう。
『愛されなくても別に』武田綾乃
新感覚だった。
『愛されなくても別に』 武田綾乃
時間も金も、家族も友人も贅沢品だ。「響け!ユーフォニアム」シリーズ著者が、息詰まる「現代」に風穴を開ける会心作!(Amazonより)
著者の作品を読んだことなかったけど、評判で気になって。
ここ数年は、20〜40代の人生一回失敗や挫折を経験したり苦難を前にした人たちの物語を読むことが多かったけど、この作品はそもそもがマイナスからスタートしたような二人の、再生の仕方や立ち向かい方ではなく、逃げ方の物語。
特に主人公の陽彩の、開放されたいと願っていながらも家族という鎖に縛られて身動きが取れない様子が、苦々しさと諦めと情愛が綯交ぜになっていて好きだった。
ーあどけない寝顔を晒す母を見ていると、私は眼球の奥で沸々と熱が滾っていくのを感じる。強烈な腹立たしさと諦観、その根底にあるのはどうしても拭いきれない母親への愛だった。こんなに苦しめられても、尚、私は母を愛している。それが、私の弱みなのだ。ー
そして、江永という自身の鏡像のような存在との出会いが、陽彩に決別と逃亡のきっかけを与え始める。
ー何故世の中に家族という言葉が蔓延っているのか、本当は私も分かってもいる。幻想だからこそ、それを守ろうとしている人々は強いのだ。家族であるというただそれだけの理由で、他人を育成する。子育ては手間が掛かり、金も掛かる。それでも尚、子供という一個人を育て上げるのだから、親という生き物は尊ばれるのだ。
私は、血がつながっているだけの他人を親とは呼ばない。呼びたくない。ー
家族という憎みきれないし逃れられないように見なされている一種の呪いのようなものに対して、互いの傷を見せ合い、共有し、戦うよりも逃げる道を二人で歩んでいく。
ー燻る憎しみは、そう簡単には消えてくれない。だが、それから目を逸らす強かさを、私は手に入れつつあった。傷だらけの過去を凝視し続けるには、人生はあまりに長すぎる。ー
今まで体験したことがなかった、逃げ方という人生の選択肢があることを知り、そこには決してネガティブさだけではなく、強い心が備わっていることを感じた。解決や明るい兆しはあまり感じないけど、決して絶望ばかりではなく、二人だったら逃げ続けられるのではないか、そう在ってほしいと期待してしまう。
『終点のあの子』柚木麻子
白でも黒でもない柚木麻子って感じ。
『終点のあの子』柚木麻子
プロテスタント系女子高の入学式。内部進学の希代子は、高校から入学した奥沢朱里に声をかけられた。海外暮らしが長い彼女の父は有名なカメラマン。風変わりな彼女が気になって仕方がないが、一緒にお昼を食べる仲になった矢先、希代子にある変化が。繊細な描写が各紙誌で絶賛されたオール讀物新人賞受賞作含む四篇。(Amazonより)
軽い感じの女性の人間関係でもなく、かといってズドンと落ちるようなドロッとしたものでもなく、小さな希望と小さな悲哀、読後には両方の感情が訪れる。
各々の感情は、他者と比べての悩みや優劣、妬み僻みなどに彩られており、また相手の感情を理解しきれず、「なんでそんな風に思うんだろう」と想像力が足りていない様子が思春期ならではの初々しさと青臭さが表現されている。
個人的には「ふたりでいるのに無言で読書」の保田さんの人間として芯の強さと、その強さゆえ恭子の気持ちが理解できないところがめちゃくちゃ良かった。
新人賞を取った「フォーゲットミー、ノットブルー」だけだと、諦めとわずかな許しを感じるけど、逆の主人公を描いた最後の「オイスターベイビー」を読んだ後にはより救いの感情が出てくる。どちらかが優位とかではなく、お互いに傷つけ合ってたんだということを感じられて、四編通して更に深みが増していく。
作者の幅の広さにまだ驚いている最中なので、もっと読み倒す。
『暇と退屈の倫理学』國分功一郎
思ってたよりずっと面白かった。
『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』國分功一郎
旧版『暇と退屈の倫理学』は、その主題に関わる基本的な問いを手つかずのままに残している。なぜ人は退屈するのか?―これがその問いに他ならない。増補新版では、人が退屈する事実とその現象を考究した旧稿から一歩進め、退屈そのものの発生根拠や存在理由を追究する。新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。(Amazonより)
オードリー若林が対談していて気になって。入門編みたいな感じだから思いの外すっと入ってきて予想以上に面白かった。
以下はただの個人的備忘録。
「暇の中で生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」
「革命が到来すれば私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。」
→人はパンがなければ生きていけない。しかしパンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけではなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾らねばならない。
1.原理論
人間は「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違える。
パスカル:みじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間。
ラッセル:退屈とは事件が起こることを望む気持ちが「くじかれた」もの。退屈の反対は「快楽」ではなく「興奮」。
・不幸に憧れてはならない
2.系譜学
・人類は定住生活を望んでいたが、経済的事情のために、それが叶わなかったのではない。遊動生活を維持することが困難になった(貯蔵の必要に迫られた)ために、「やむを得ず定住化したのだ」
→食料生産は定住生活の結果で原因ではない。
・定住革命的な人類史観:遊動生活→定住生活の開始→食料生産の開始
・退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた⇨「文明」の発生
3.経済史
「暇」:何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。⇨「客観的な条件」に関わっている。
「退屈」:何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。⇨「主観的な状態」
・レジャー産業:何をしたらよいか分からない人たちに、「したいこと」を与える。人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。
ガルブレイス:現代社会の生産過程は生産によって充足されるべき欲望をつくり出す。
・モデルチェンジ:なぜ買うのか?「モデル」そのものを見ていないから。モデルチェンジによって退屈しのぎ・気晴らしを与えられることに慣れきっている。
4.疎外論
浪費:必要を超えて物を受け入れること、吸収すること。必要のないもの、使い切れないもの浪費の前提。どこかで限界に達する。⇨贅沢の条件
消費:人は消費するとき、物を受け取ったり、吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。限界がなく決して満足をしない。⇨ボードリヤール:消費とは「観念的な行為」
・浪費できる社会こそが「豊かな社会」
・消費社会では物がありすぎるのではなく、物がなさすぎる。なぜなら商品が生産者の都合で供給されるから。
⇨満足をもたらす消費をされては困る、人々が浪費するのを妨げる社会。
余暇:非生産的活動を消費する時間。「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない。
ルソーの自然状態論:「本来性なき疎外」
マルクス:「自由の王国」は労働日の短縮によってもたらされる暇において考えられる。
ボードリヤールが考える疎外:暇なき退屈をもたらしてくる。←消費と退屈との悪循環のなかにある(消費は退屈を紛らわすために行われるが、同時に退屈を作り出してしまう)。
5.哲学
①退屈の第一形式:何かによって退屈させられること
②退屈の第二形式:何かに際して退屈すること
①:「引きとめ」(退屈しながらぐずつく時間によって引きとめられている)と「空虚放置」(虚しい状態に放って置かれる)
⇨空虚放置され、そこにぐずつく時間による引きとめが発生する
②:「何がその人を退屈させているのかが明確ではない」
退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っている⇨主体の際している状況そのものが暇つぶし(気晴らし)
空虚放置:外界が空虚であるのではなく、自分が空虚になる
引きとめ:放任しているが放免していない
⇨生きることはほとんど、②に際すること、それに臨み続けることではないだろうか?
③退屈の第三形式:なんとなく退屈だ
→退屈に耳を傾けることを強制されている
空虚放置:周囲の状況も自分自身も、すべてが一律同然にどうでも良くなっている
引きとめ:可能性の先端部にくくりつけられ、引きとめられ、そこに目を向けることを余儀なくされること
↓
あらゆる可能性が拒絶され、すべてがどうでもよくなっている。だが、むしろあらゆる可能性を拒絶されているが故に自らが有する可能性に目を向けるように仕向けられている。
6.人間学
ユクスキュル:「環世界」すべての生物は別々の時間と空間を生きている
→人間と動物の差異:人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力をもっている。人間は動物に比べて「比較的」容易に世界を移動する(動物もできるはできる)。
↓
環世界を容易に移動できることは、人間的「自由」の本質かもしれないが、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体。何か特定の対象に〈とりさらわれ〉続けることができるなら、人間は退屈しない。
しかし人間は容易に他の対象に〈とりさらわれ〉てしまう。
↓
人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。
人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。
7.倫理学
「決断の瞬間とはひとつの狂気」
ギリギリに追い詰められた人間が、仕方なく周囲の状況に対して盲目になりながら、決断という狂気へと身を投じるのではなく、決断という狂気をもとめて周囲の状況から自分を故意に隔絶する。
=「狂気の奴隷」故意にもとめられこんなに楽なことはない。
・人間にとって生き延び成長していくこと:安定した環世界を獲得する過程。自分なりの環世界を途方もない努力によって創造していく過程。
・人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが習慣を作り出すなかで退屈してしまう←人間は気晴らしと退屈が入り交じった退屈の第二形式を概ね生きている。
・人間が環境をシグナルの体系へと変換して環世界を形成すること、つまり様々なものを見たり聞いたりせずに生きるようになることは当然。大切なのは退屈の第三形式=第一形式の構造に陥らぬようにすること、つまり奴隷にならないこと。
↓
「人間的な生」概ね第二形式を生きること。そして時たま第三=第一形式に逃げてまた戻ってくること。
⇨もうひとつの可能性:つらい人間的生からはずれてしまう可能性⇨何かによってとりさらわれ、一つの環世界にひたる〈動物になること〉。(人間的自由の本質)
結論
①本書を読むこと自体が〈暇と退屈の倫理学〉の実践のただなかにいる
⇨自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては何かが変わる。
スピノザ:大切なのは「理解する過程」(反省的認識)
②贅沢(浪費)を取り戻す
⇨退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受すること、つまり人間であることを楽しむこと。
③楽しむことは思考することにつながる(どちらも受け取ること)
〈人間であること〉を楽しむことで〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる
自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには分からない。そして思考したくないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。
しかし、世界には思考を強いる物や出来事が溢れている。楽しむことを学び、思考を強制することで人はそれを受け取ることができるようになる。
傷と運命
「サリエンシー」:精神生活にとっての新しく強い刺激。興奮状態をもたらす未だ慣れていない刺激。
・サリエンシーに慣れる=「予測モデル」を形成する
⇨最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、自己の身体として立ち現れる。
サリエンシーという〈他〉への慣れが行われる過程において〈自〉が生み出される。
・人はサリエンシーを避けて生きる⇨安定した何も起こらない状態が訪れる⇨周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめる=退屈の正体
・退屈とは「悲しい」とか「嬉しい」などと同様の一定の感情ではなくて、何らかの不快から逃げたいのに逃げられない心的状況
ちゃんと読み返したいし、他の著書も読んでみたい。