『アロハで猟師、はじめました』近藤康太郎

想像していた何倍も深かった。

 

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『アロハで猟師、はじめました』近藤康太郎

獣害に苦しむ近隣農家に乞われ始めた猟師生活。野蛮で暴力的だと思っていたその世界は、この社会から“ばっくれて生きる”ための知恵がたくさん詰まっていた。鴨を追いかけ、鹿を捌き、猪と格闘して掴んだ資本主義のカラクリ、生と死の手触り、五感の回復…これからの「世界」と「生きること」をワイルド・サイドから考えた、七転八倒のドキュメント。(Amazonより)

 

大学時代の友人から薦められた一冊。もとはラランドのニシダが取り上げていたらしい。

ライターが移住して米を作り始め、猟にも手を出す。アロハで。どこか楽天的というか自由奔放な印象で、そこから経済に関する知恵みたいなものが引き出されていくのかと思ったら。

自然や動物を相手にするということは、もちろんそんな簡単に甘いものじゃなく、その描写は匂いや傷までイメージさせる生々しさに溢れていて、肉体と精神ともに酷使した上での経験をもとに導き出される、著者の様々なことに関する考え方や信念のようなものは色んな気づきやモノの見方を教えてくれる。

 

・これ(猟の過程で「自分だけの秘密基地」を作ること)に興奮できれば、精神年齢小学五年だ。こんなことに興奮できる幼さに、喜びを感じるだけの精神の若さが、自分のなかにまだ残っている。自分の幼さと、折り合いをつけない。自分のなかの洟垂れを手放すな。

 

・肩に食い込む銃の重みとともに、初めて肉体で分かることがある。肩の痛み、足の痛みを通過していない言葉だけの平和主義も、言葉だけの愛国主義も、軽薄である。児戯に等しい空疎な観念だ。銃をとれ、命をとってから、言えるものなら言ってみろ。

 

・自分たちのせいで、けものが死ぬ。けものの死こそ、自分たちの生である。それは、殺生の快楽ではない。殺生のあとにやってくる音楽や踊りや笑いであり、飢えからの解放であり、腹の充足であり、セックスであり、深い眠りであり、それらこそが〈快楽〉だったのだ。

 

・「欲望」は人間だけが持つものだ。けものに、欲求はあっても欲望はない。それは、欲望が、言語によって引き起こされる現象だからだ。

・欲望の本質は「他者によって確認される」ということである。生物的な欲求ともっとも異なるのはここだ。他者の存在なくして、欲望は充足され得ない。したがって、欲望には限りがない。

 

・存在とは、「ある」のではない。「なる」ものなのだ。

・自分探しなど、さてさて笑止の限りだ。自分とはなにかと探すのではなく、ついについにこう問わなければならないのだ。「なにが自分であるのか」と。わたしとはなにか。決まっている。他者の命だ。他の生命の殺戮によって成り立つ、たったいっときの〈現象〉が、わたしなのだ。

 

・「逃げる」のと「ばっくれる」の違いはなにか。(中略)ばっくれるというのはどういうことかというと、ふまじめなのだ。逃げるそぶりなど見せない。みんなとおなじ社会に、おなじゲームに参加して生きていますよというシグナルを送りつつ、なんとなく、ヘラヘラと笑って生きている。わたしたちはあなたたちの味方です、同類ですよ…。そして、後ろ足で、そっと後ずさる。集団を出てしまう。

・ばっくれながら戦う。武器を取りつつ、ばっくれる。(中略)そして戦いとは、人間的なつながりを復活させる戦いだ。

 

言葉の重みを訴えるにはそれに伴う身体的な痛みが必要なこと、殺生によって生じる快楽の本来の場所、他者の存在や言語によって欲望が発生すること、存在とは状態ではなく過去から未来へと移ろう中での現象であること、社会から逃れて断絶するわけではなく認識しながらもその輪から外れて自分たちの戦いをすること、本当にたくさんのことを教えてくれた。

全てを理解して腑に落ちたわけではないけれど、個人的には「自分のなかの洟垂れを手放すな」ってところが、色んなことに理由をつけて納得したふりを自分自身にしてしまいがちな年頃だから、特に刺さった。

時代に沿った革新的なことをしているわけではないのだけど、その土地での暮らしをどんな目的や考え方で行うか、どんな繋がりを形成して付き合っていくかっていうところに田舎在住者としては可能性というか見落としていたものを感じてハッとさせられた。

 

著者のこれからの戦いも追っていきたいし、これまでの作品や考えもたどりたくなった。この本は一生本棚に置いておこう。