アプリと合コン

通ってる美容室の店長は、同じ街で育った同い年なので影響を受けたものや感覚に共通項が多く、切ってもらっている間いろんな方向に話が飛んで盛り上がる(と少なくとも俺は思っている)。

 

前回こんなことを言われた。

 

「若い子たちの間で流行ってるZenly(ゼンリー)ってアプリ知ってます?」

 

話を聞くとどうやら友人や恋人と位置情報や滞在時間、電池残量、移動速度を共有できるサービスとのこと。シークレットモードみたいなのはあるらしいけど。

最初はピンと来てなかったが、途中で思い出した。ここ二、三ヶ月で読んだ短編の中にそのアプリが登場してて、「こんなアプリ実際にあったらやだなー」と架空の存在として捉えてしまっていた。

現代的な便利な繋がり方なんだろうけど、個人的には監視されているような怖さと、若者の間で流行ってることを現実の範疇だと捉えられなくなってしまい、社会の中心からズレてきている怖さの両方を感じてしまった。これからどんどんメインターゲットから外れていくんだろうな。

 

そこから話はマッチングアプリへと続いた。

約10年前に広まり始めた時は出会い系みたいなイメージがあったけど、さすがに今はそんなことは思わない。

というかむしろ自分も何回か登録した(今は辞めてる)。男性側としては、毎月少なくない会費払って、能動的に効果的な自己PRをして取り組むっていうのが、面倒に感じてしまった。なんだかんだ理由つけても特に良い出会いできなかったってことも理由だけど。

個人的に合っているかどうかは別として、外見や趣味嗜好、様々な価値観、ステータス(嫌な言い方だけど)を把握した上で、出会うチャンスがあるっていうのは効率的だし良いことだらけだと思う。

 

でもそこにはなにか捨てきれない思いというか、思い出が残っていることに美容師と話すうちに気づいた。

懐古主義とか古臭いとか言われるかもしれないけど、それは「把握できない期待と無駄」があるっていうことなんじゃないかと思う。

自分たち世代が携帯を持ち始めたのは大抵が高校生から。ガラケーとかそういうことの前の、MOVAとかFOMAとか。当たり前にSNSやアプリはなく、連絡先を知るには直接聞くか、人づてに紹介してもらうしかなかった。

そして高校を卒業すると、出会いの機会は飲み会や合コンに移っていった。本当に狭くてごく個人的な考えと経験談だけど、合コンってすごく効率が悪いと思う。

どんな子たちが来るかわからない中で仲間同士で勝手にテンションと期待値上げて、始まったら自分たちなりに場を成立させようとするけど、大抵は何も起こらず連絡先だけみんなで交換して。女の子見送った後に反省会開いて愚痴って飲み直して…。自分の周りはだけど、高校卒業してからの15年間で、合コンでいい感じになってちゃんとした関係に発展した人をあまり知らない。

マッチングアプリと比べると成功率も効率も費用対効果も雲泥の差だと思う。「恋愛相手を見つける」ということに関しては、確実にマッチングアプリの方が優れている。

だけど、「相手のことを把握しすぎずに出会う」ということには、整然としたシステムでは生み出せない期待と無駄がある。それらにはある種の中毒性があって、効率的な成功では得られない退廃的な楽しさを感じてしまう。男だけの反省会含めて。

もちろん対個人のマッチングアプリ団体戦的な合コンでは、必ずしも目的や楽しみ方が同じではないとしても。

 

ゼンリーの話に戻り、世代的な価値観の相違ももちろんあるけど、お互いに全てを把握できたり効率的にコミュニケーションを取れるよりも、相手に隠れてする行動や、自分しか知らない、把握できない時間や空間だったり、そういう便利すぎないからこそ生まれるある意味の不都合って無くなってほしくないなと思う。

マッチングアプリも合コンも全然得意じゃないおじさんの考えでめちゃくちゃ穴だらけだから、いつかそれぞれのプロに聞いてみたい。合コン得意な知り合いに聞いてみたら、魅力は「その場の支配」って言ってたので次元が違かった。

『ただいま神様当番』青山美智子

さすがの面白さ。

 

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『ただいま神様当番』青山美智子

ある朝、目を覚ますと手首から腕にかけて「神様当番」と太くて大きな文字が書かれていた!
突如目の前に現れた「神様」を名乗るおじいさんのお願いを叶えないと、その文字は消えないようで……?

「お当番さん、わしを楽しませて?」

幸せになる順番を待つのに疲れている印刷所の事務員、理解不能な弟にうんざりしている小学生の女の子、SNSでつながった女子にリア充と思われたい男子高校生、大学生の崩れた日本語に悩まされる外国語教師、部下が気入らないワンマン社長。

奇想天外な神様に振り回されていたはずが、いつのまにか主人公たちの悩みも解決していて……。
笑えて泣けるエンタメ小説です。 (版元ドットコムより)

 

 

著者の作品を読むたびに、柔らかい文章での読み易さと心に響いてくるセリフの多さの両立がすごいなって感じる。特に主人公に気づきを与えてくれる脇役たちの言葉が素敵。

 

「大げさかもしれないけど、人生って、単に楽しいからやるって、それが一番の決め手だよ。意味があるとか、お金になるとかはその次でさ。自分自身に何かの取柄や才能があるかどうかもあんまり関係なくて、この世をおもしろがれる力のほうがうんと大事だと思う。」

「思い通りにならない恋にすったもんだするって、究極のリア充だよ。きれいなことしかない世界なんて不自然なんだから」

「怒っているとか悲しいとか、そういう気持ちは一番にしっかり伝えなくちゃだめよ。その後にちゃんと笑うためにもね。」

 

またフォーマットが素晴らしくて、今作も、神様当番という不思議な設定を通して、起承転結がわかりやすく全編から満遍なく面白さが伝わってくる。

どんな状況やテンションで読んでもオールラウンドに面白さを与えてくれる作家さん。

 

 

 

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『星を掬う』町田そのこ

最高だった。

 

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『星を掬う』町田そのこ

町田そのこ 2021年本屋大賞受賞後第1作目は、すれ違う母と娘の物語。
小学1年の時の夏休み、母と二人で旅をした。
その後、私は、母に捨てられた――。
ラジオ番組の賞金ほしさに、ある夏の思い出を投稿した千鶴。
それを聞いて連絡してきたのは、自分を捨てた母の「娘」だと名乗る恵真だった。
この後、母・聖子と再会し同居することになった千鶴だが、記憶と全く違う母の姿を見ることになって――。

(版元ドットコムより)

 

小説って、自分との共通点や共感できる部分を見つけるから面白さがグッと増す部分があると思う。

この作品については、その共感性みたいなものを感じることが少なかった。でもそれは悲しい別れや暴力なことを経験してたことがないってことで幸せなことだと思うし、その要素が少なかったとしても余りありすぎる面白さと魅力が詰まっている。

親の、子の、家族の犠牲になるのか、捧げるのか、投影するのか、束縛するのか、数限りない関係性があり、なにが正解でどれが不正解かなんて簡単に外側から判断できものであるはずがないし、当人たちにもわからないんだろう。

でもこの親子の関係性にはものすごく強いメッセージというか指針になるものが込められている。

「自分の手でやることを美徳だと思うな。寄り添いあうのを当然だと思うな。ひとにはそれぞれ人生がある。母だろうが親だろうが、子どもだろうが、侵しちゃいけないところがあるんだ」

「家族や親って言葉を鎖にしちゃだめだよ」

家族と適切な距離感を保ち、自分自身の尊厳を守り抜くこと。程度は低いけれど自分自身の戒めになるような言葉だった。

また、20年ぶりの再会という遠い距離感を徐々に埋めていく様子や、認知症という病気を介して唐突に本年で伝え合う描写が素晴らしかったし、悲喜どちらの意味でも揺さぶられるものがあった。

昨年の作品では個人的に『正欲』と『夜が明ける』が断トツだったけど、これも最高の物語だった。

 

 

 

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『キネマの神様 ディレクターズカット』原田マハ

作り手たちの素敵な往復書簡。

 

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『キネマの神様 ディレクターズカット』 原田マハ

『キネマの神様』映画化に際し山田洋次監督は自身の若き日を重ねて脚色。そのシナリオから著者が新たに生み出すもうひとつの物語。(Amazonより)

 

俺の初原田マハ作品は『キネマの神様』で、その素晴らしさに衝撃を受けたしめちゃくちゃ感動して、好きなものを好きでい続けることの大切さを教えてくれた。あと『ニューシネマパラダイス』を観るキッカケも。

その実写化が行われるとは知っていたけれど、どうやら原作と違ったストーリーになるっぽくて、自分にとって大事な作品が故に少し敬遠していた。

そうしてる間に、コロナが流行し、志村けんが亡くなり、どんどん状況は変化していった。

そしてついこの間、この作品の存在を知った。「キネマの神様の新装版かな?」と思ったら、

 

小説〈キネマの神様〉を原作とした映画〈キネマの神様〉を原作とした小説〈キネマの神様〉

 

と。ワケがわからなかった。

でもまえがきを読んでいくと、そこには作り手同士の心のこもったやりとりがあり、どんな経緯で実写化されたか、さらにノベライズされたか、理解することができたし変な誤解や偏見を持っていたなと気付かされた。

まだ映画を観ていないからあくまでノベライズを読んで上での感想になるけど(ややこしい)、共通する個性的なキャラクターを介して、別の角度から映画人に踏み込んだ新たな物語。そして家族への愛は薄まることなくしっかり伝えていて、授賞式のスピーチは感動が押し寄せてくる。

さらに映画版の物語を表現するだけではなく、コロナ禍や主役交代という類を見ない状況の中で、しっかり作品を作り上げた現実の映画関係者への尊敬と感謝に溢れている。

現実と虚構を行き来するような不思議な読書体験。まさにゴウが描いた〈キネマの神様〉の世界観のようだった。

 

 

 

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『君の顔では泣けない』君嶋彼方

感情がよくわからなくなる。

 

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『君の顔では泣けない』 君嶋彼方

高校1年の坂平陸は、プールに一緒に落ちたことがきっかけで同級生の水村まなみと体が入れ替わってしまう。いつか元に戻ると信じ、入れ替わったことは二人だけの秘密にすると決めた陸だったが、“坂平陸”としてそつなく生きるまなみとは異なり、うまく“水村まなみ”になりきれず戸惑ううちに時が流れていく。もう元には戻れないのだろうか。男として生きることを諦め、新たな人生を歩み出すべきか――。迷いを抱えながら、陸は高校卒業と上京、結婚、出産と、水村まなみとして人生の転機を経験していくことになる。変な感覚に陥る。(版元ドットコムより)

 

去年話題になっていた作品をやっと。

入れ替わりは近年よく見かけるテーマかもしれないけど、この作品はそれによって生じるドタバタや葛藤だけではなく、「そのまま生き抜いていく」っていうところに焦点が当てられている。それは決して明暗がはっきりつくものではなく。

男女二人が入れ替わってからの15年を時間を前後しながら綴っていく物語。主人公の坂平陸の、元に戻ることへの未練や諦めから生じる、戸惑いや努力、葛藤がすごく伝わってくる。そしてヒロインの水村まなみへ対するある種の嫉妬、外見は水村であろうが内面の自分自身を認めてくれた友人・田崎という存在の喜び、ずっと続く入れ替わりだからこそ描写できる独特の感情が渦巻いている。

本筋ではないけど、主人公が女性として肉体関係を持つシーンでは、なにか見てはいけないものを見てるような、性描写に初めて抱く感情を抱いた。自分の容量が少ないからかもだけど。

また作中全体を通して、何度もタイトルの意味が頭をよぎり、どんどん意味を変えて伝えたい核心に迫っていく展開は読み応えがあった。

だけれども、読み取りきれなかったことがある。それはヒロイン・水村の本当の感情である。常に坂平を励まし、なんでもないように振る舞い、客観的には順調に人生を築き上げている坂平とは対照的に、飄々と生きていることの真意。特別不幸でも幸せでもない、だけれどもプラマイほどほどの生き方とも言い切れない、掴みどころがないけれども引っかかる存在のままとしてラストを迎えてしまった。もしかしたら最後にあるように、どちらかではなく二人合わせて一つの存在・心情だったのかなとも思う。

簡単な結末を迎えるのではなく、最後まで読み手に考えたり想像したりする空白を与えてくれる作品だった。これがデビュー作ということなので、次の作品も楽しみ。

 

 

 

 

 

10年ぶりにパソコン買い替えた

今年やりたいことのひとつ、パソコンの買い替えをした。

 

前回買ったのは、2012年の夏、社会人2年目のボーナスで買った2009年発売のiMac

 

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当時はWiFiの割引競争が激しくて、ポケットWiFiとの同時契約で10万のiMacが5万まで安くなった。すごい時代。

今は使用できないほどの故障とかはないけど、機種的にOSやアプリのアップデートの対象外だったり、動作も遅くなったりしてたから、ここ2、3年ずっと買い替えを検討してたけどなかなか踏ん切りつかず。

 

だけど、もろもろクリアしたいことが出てきたのでいよいよ購入を決意。

・去年の自宅待機期間中、職場の仮想環境をダウンロードできず困った。(急遽友だちに借りた)

・本とかの感想をまとめようとする時、以前はノート派だったけどとりあえずキーボード打ち始める方が書き出しやすくなってきたのでパソコン持ち歩きたい。

・自宅のネット回線をポケットWiFiからSoftbank光に乗り換えたら速度爆上がりしたので、一気に環境整えたい。

 

てことで買いました、MacBook Pro13インチ。

 

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自分がパソコンを使う目的は今後の可能性を含めてこんな感じ。

・ネットサーフィン

・ブログ

・在宅勤務

・動画編集(2年に一度くらい依頼があれば)

・ごくごく簡単なデザイン

スペックは色々悩んだけど、M1チップのMacBook Proだったら十分だなと思い、メモリ拡張とかもせずデフォルトのまま。唯一仕様変更したのは、キーボードを英国版にしたこと。ひらがな表記不要だなと思ってたし、今のところ不都合なくて快適。

 

支払いに関しては、常に暮らしが毎月ギリギリなので、一括じゃなくてAppleのオリコローンで24回払いを選択。利息なしありがたい。ボーナス時も同額くらいの支払いにして、月々5100円ちょっと。

 

届いた後は、ゴチャゴチャしてないスッキリした状態で使いたかったので、とりあえずiMacからの移行をせずに初期設定。この動画を参考にしました。

 


www.youtube.com

 

使用開始4日目、今のところこんな感じ。

・職場の仮想環境システムダウンロード完了。いつでも在宅勤務できる。

・カフェでパソコンいじるの、偏見と羞恥心がすごかったけどやっぱりその場ですぐ打った方が形になりやすいし捗る。

・ネットが速くなったのと相まって、生活環境めっちゃ良くなった。ここ10年忘れてたけど、パソコンを机以外で使えるって最高。

てことでプラスしかなくて大満足。もっと早く買い替えとけばよかった。

 

ちなみに持ち運びのケースは、キュレーションサイト・HATCH(ハッチ)で紹介されてたANAHEIM HOUSEHOLD GOODSのスリーブを購入。見た目マジ封筒でいい感じ。

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shop.hatch8.jp

 

 

今年はこういう躊躇してたことをどんどん実行して生活爆上げしていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『アロハで猟師、はじめました』近藤康太郎

想像していた何倍も深かった。

 

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『アロハで猟師、はじめました』近藤康太郎

獣害に苦しむ近隣農家に乞われ始めた猟師生活。野蛮で暴力的だと思っていたその世界は、この社会から“ばっくれて生きる”ための知恵がたくさん詰まっていた。鴨を追いかけ、鹿を捌き、猪と格闘して掴んだ資本主義のカラクリ、生と死の手触り、五感の回復…これからの「世界」と「生きること」をワイルド・サイドから考えた、七転八倒のドキュメント。(Amazonより)

 

大学時代の友人から薦められた一冊。もとはラランドのニシダが取り上げていたらしい。

ライターが移住して米を作り始め、猟にも手を出す。アロハで。どこか楽天的というか自由奔放な印象で、そこから経済に関する知恵みたいなものが引き出されていくのかと思ったら。

自然や動物を相手にするということは、もちろんそんな簡単に甘いものじゃなく、その描写は匂いや傷までイメージさせる生々しさに溢れていて、肉体と精神ともに酷使した上での経験をもとに導き出される、著者の様々なことに関する考え方や信念のようなものは色んな気づきやモノの見方を教えてくれる。

 

・これ(猟の過程で「自分だけの秘密基地」を作ること)に興奮できれば、精神年齢小学五年だ。こんなことに興奮できる幼さに、喜びを感じるだけの精神の若さが、自分のなかにまだ残っている。自分の幼さと、折り合いをつけない。自分のなかの洟垂れを手放すな。

 

・肩に食い込む銃の重みとともに、初めて肉体で分かることがある。肩の痛み、足の痛みを通過していない言葉だけの平和主義も、言葉だけの愛国主義も、軽薄である。児戯に等しい空疎な観念だ。銃をとれ、命をとってから、言えるものなら言ってみろ。

 

・自分たちのせいで、けものが死ぬ。けものの死こそ、自分たちの生である。それは、殺生の快楽ではない。殺生のあとにやってくる音楽や踊りや笑いであり、飢えからの解放であり、腹の充足であり、セックスであり、深い眠りであり、それらこそが〈快楽〉だったのだ。

 

・「欲望」は人間だけが持つものだ。けものに、欲求はあっても欲望はない。それは、欲望が、言語によって引き起こされる現象だからだ。

・欲望の本質は「他者によって確認される」ということである。生物的な欲求ともっとも異なるのはここだ。他者の存在なくして、欲望は充足され得ない。したがって、欲望には限りがない。

 

・存在とは、「ある」のではない。「なる」ものなのだ。

・自分探しなど、さてさて笑止の限りだ。自分とはなにかと探すのではなく、ついについにこう問わなければならないのだ。「なにが自分であるのか」と。わたしとはなにか。決まっている。他者の命だ。他の生命の殺戮によって成り立つ、たったいっときの〈現象〉が、わたしなのだ。

 

・「逃げる」のと「ばっくれる」の違いはなにか。(中略)ばっくれるというのはどういうことかというと、ふまじめなのだ。逃げるそぶりなど見せない。みんなとおなじ社会に、おなじゲームに参加して生きていますよというシグナルを送りつつ、なんとなく、ヘラヘラと笑って生きている。わたしたちはあなたたちの味方です、同類ですよ…。そして、後ろ足で、そっと後ずさる。集団を出てしまう。

・ばっくれながら戦う。武器を取りつつ、ばっくれる。(中略)そして戦いとは、人間的なつながりを復活させる戦いだ。

 

言葉の重みを訴えるにはそれに伴う身体的な痛みが必要なこと、殺生によって生じる快楽の本来の場所、他者の存在や言語によって欲望が発生すること、存在とは状態ではなく過去から未来へと移ろう中での現象であること、社会から逃れて断絶するわけではなく認識しながらもその輪から外れて自分たちの戦いをすること、本当にたくさんのことを教えてくれた。

全てを理解して腑に落ちたわけではないけれど、個人的には「自分のなかの洟垂れを手放すな」ってところが、色んなことに理由をつけて納得したふりを自分自身にしてしまいがちな年頃だから、特に刺さった。

時代に沿った革新的なことをしているわけではないのだけど、その土地での暮らしをどんな目的や考え方で行うか、どんな繋がりを形成して付き合っていくかっていうところに田舎在住者としては可能性というか見落としていたものを感じてハッとさせられた。

 

著者のこれからの戦いも追っていきたいし、これまでの作品や考えもたどりたくなった。この本は一生本棚に置いておこう。